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◆ / Contents

オープニング
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
エンディング


プロローグ


公園に一人の女の子がブランコに座っていた。
女の子は、特にブランコをこごうともせず、ただただ座っているだけであった。
その女の子はどことなくぼんやりとして様子で、どこか遠くを見つめているようであった。
 ふと隣にあるブランコに視線を向ける。
隣には誰も座っていなかった。
その様子に、女の子は溜め息をついた。
女の子は誰かが来るのを待っているのだ。
どれほどの時間待っているのかわからないが、女の子にはその時間が随分と長く感じられた。しかし、特に怒っている様子はなかった。どちらかというと、待つことに飽き始めてしまっているようであった。
 しかし、今、待っている相手がいなければ、こうして自分はブランコで人を待つことさえできなったのだ。そう思うと、女の子はその相手をいくらでも待つことができた。


第一章


「お母さん、本読んで」
少女はそうお願いすると、両手に抱えていた本を母親に差し出した。
「ごめんね、育ちゃん。お母さん、今、忙しくて手が離せないの」
母親はそう答えると、育の頭を優しく撫でた。
「ごめんね」
母親はもう一度謝ると、育から逃げるようにして先ほどまで仕掛かっていた作業を再開した。
「うん、わかった……」
消え入りそうな声で育はそう答えると、とぼとぼと背を向けてキッチンの隣にあるリビングに歩いていった。そのリビングは庭に出られるようになっている。育は窓の鍵を開けると、庭に出て行った。
育は家の近くにある公園へ向かった。もしかしたら、誰か遊び相手になってくれる人がいるかもしれないと思ったからだ。今、家は引っ越しをしている最中で両親は手が空いていない。そのため、誰も育の相手をしてくれないのである。
家を出てからいくつかの角を曲がったところで、道路に猫がいることに気がづいた。
途端に、育の目は好奇の眼差しに輝く。
体長は三十センチくらいの大きさで、色は灰色をしていた。しかし、尻尾だけがふさふさと白色になっており、なんとも特徴のある猫であった。
「にゃ~、にゃ~」
猫の鳴き声を真似しながら、育は近づいていった。意外にもその猫は逃げようとしなかった。
その様子に、育の目はさらに輝きを増す。猫までの距離は、あと数センチもあれば届きそうな距離であった。
育は意を決して、猫に触れてみようと手を伸ばした。猫はその様子にピクリと反応して警戒した。そして、次の瞬間、育の手を引っ掻いた。
「痛っ!」
育は慌てて、手を引っ込めた。しかし、その指からは赤い血が滴っていた。
「あっ」
育が引っかかれた指に気を取られている隙に、猫はどこかへといなくなっていた。育は周囲を見回してみたが、やはりその姿は見つからなかった。育は諦めて公園へと向かっていった。
公園は縦百メートル、横六十メートルくらいの大きさがある。普段は小学校の高学年の児童たちが学校帰りによく遊んでいる。しかし、今はまだ学校の授業の行われている時間帯であるため、公園はがらりと空いており、誰もいなかった。
「誰もいない……」
育はそう呟くと、ブランコのあるところに向かった。
育の家は最近引っ越しをしたばかりで、まだ学校への手続きを済ませていない。そのため、育はまだ学校に行けず、子どもたちが学校で勉強している時間は退屈であった。そういった事情もあり、育にはこの地域に友達と呼べる子どもがいなかった。
公園に行けば誰か遊び相手がいるかもしれないという淡い期待を持っていたが、それは無残にも打ち砕かれてしまった。その様子に育は落胆しつつ、ブランコに座った。
それから暫くの時間が経ち、育が自分の足元を見飽きた頃に、突然、横から声を掛けられた。慌てて視線を向けると、いつの間にいたのか一人の少年がブランコに座っていた。少年は少し呆れた面持ちで、育を見ていた。
「全然、気づいてくれないんだもんな。何度も声を掛けたのに」
少年はそう言って、優しそうな眼差しで育に笑いかけた。
「お兄ちゃん……誰?」
「俺か。俺は通りすがりの中学生だ」
「中学生?」
 育はそう言って首を傾げた。
「何で疑問系なんだよ」
「だって今は学校で勉強する時間だよ」
「それはお互い様だろ」
「育は学校に行ってないから……」
育の言葉に少年は思わず驚いた。
「学校に行ってない? ……何か複雑な事情でもあるのか?」
「……ふくざつ?」
一方の育は、少年の言葉に首を傾げた。どうやら、今少年の言った『ふくざつ』という単語の意味がわからないようであった。少年はそのことに合点がいったと同時に、困ったような表情を見せた。それは、『ふくざつ』という言葉の意味を少女にどうやって説明すれば伝わるかと思案したからだ。
「そうだな……。何かと大変って意味だよ」
「大変? ……忙しいってこと?」
「ん? ああ、そうだ。忙しいってことだ」
肯定しながらも、何か違うと思う少年であったが、とりあえず、気にしないことにした。
「そしたらね、育の家ね。今、お引っ越ししてて忙しいの、だからまだ学校に行けないの」
 その説明に少年は納得したような表情を見せた。
「引っ越しってこの辺に移ってきたってことか? それとも、今から別の場所に移動するってこと?」
「この近くに引っ越してきたの」
「あっちの方向」と言って、育は家のある方向を指で示した。
「ふーん、育ちゃんは、今何年生?」
「今、三年生」
 育はそう言って、指を三本立てて三の数字を示した。
「そうか」
 少年は育の学年から『複雑』という漢字の意味を習ったのかを考えようとしたが、簡単に諦めた。習った時期なんて思い出せることができないというのもあるが、それ以外のことに気を取られていたからだ。
「おい、指から血が出てるぞ。大丈夫か?」
 少年は慌てて、育の手を取った。血は固まり始めていたが、傷口が痛々しく見えた。
「公園に来る途中で、猫に引っかかれた……」
 口の先を尖らせてながら育は答えた。指を傷つけられた場面を思い出しているようで、明らかに不機嫌そうな顔をしていた。
「消毒した方がいいぞ」
 少年はブランコから立ち上がると、育の手を掴んだまま公園の水道に向かっていった。育は特に抵抗もせずに、少年と一緒に水道に向かった。
「しっかし、えらく深い傷だな」
 水で傷口を洗い、持っていた鞄の中から絆創膏を取り出し、育の傷口を塞いだ。
「一体、どんな触り方したんだ?」
「こうやったの、こう」
 育はまるでそこに先ほどの猫がいるかのようにして、触ったときの様子を身振り手振りして説明した。当然、育の説明するエアキャットは少年には見えるわけも無く、どんな触り方でどこを触ったのかなんて、到底わからなかった。ただ、悪意を持って接していないということは、十分に伝わった。
「とりあえず、触るときは後ろからゆっくり触ってやった方がいいぞ。正面からいきなり手を伸ばしたら、びっくりするからな」
 少年の言葉に、育は納得したのか、こくりと首を立てに振った。
「ちなみに、どんな猫だったんだ?」
「この辺じゃ見ないおかしな猫」
「おかしな猫?」
「そうだよ。だって、全部ねずみ色なのに尻尾だけ白かったんだから。ふさふさしてたし」
 育の言葉に、少年は驚きの表情を見せた。
「ホントか? どこで見かけたんだ?」
 突然、少年の声が大きくなったため、育はびっくりしたように体をびくりと反応した。
 その様子に、少年は「ごめん、ごめん」と謝った。
「もしかしたら、その猫、俺が捜している猫かもしれないからさ」
 今後は先ほど同じように、穏やかな口調で説明をした。
「どの辺りで見つけたのか教えてくれないか?」
「でも、もういないよ。私が近づいたら逃げちゃったんだもん」
「それでもいいよ。もしかしたら、会えるかもしれないし」
 特に断る理由も無く、育は少年を先ほど猫を見かけたところに案内することにした。そろそろ母親が心配する頃ということもあって、その帰り道に案内するのはついでのようなものだと思ったからだ。
「よし、学校休んでまで捜しに来た甲斐があったな」
 少年は少し嬉しそうな表情で右手の拳を握りしめた。
「サボり」
 その様子を見ていた育は、嫌味っぽくぽつりと呟いた。
「ほっとけ!」

 それから猫を見かけたところに案内したが、結局、猫の姿は見当たらなかった。
 少し時間を掛けて辺りを捜してみたが、やっぱり見つからなかった。
「しょうがない、明日、捜してみるか……」
 少年はそう呟くと、少しがっかりした様子で肩を落とした。しかし、諦めたわけではないようである。
 一方、育は少年の言葉に目を輝かせていた。
「お兄ちゃん、明日も来るの?」
「……ああ、そうだな」
 少年はその期待の眼差しに、苦笑いをしながら答えるのであった。


第二章


 平日の公園で二人の子どもが楽しそうに遊んでいた。親しげに遊んでいる彼らだが、二人は兄妹ではない。
 彼らは公園にあったブランコや鉄棒、ジャングルジムなどで有意義に時間を過ごした。もともと公園で会うことを約束はしていたものの、待ち合わせる時間を指定しているわけではなかった。ましてや、遊ぶ約束はしていなかった。しかし、育が公園に一人で遊んでいると、少年は昨日と同じくらいの時間に姿を見せた。少年の目的は猫を捜すことであったが、少年は育の姿を発見すると、目的を一時的に保留にして遊ぶことにしたのだ。
「お兄ちゃんの名前って何ていうの?」
 ひとしきり公園のもので遊び終わったときに、育が少年に訊ねた。
 その言葉に少年は「ああ、そういえば」と自分がまだ名乗っていないことに気づいた。
「俺? 俺は河南正一。ちなみに、中学校一年な」
「しょういち?」
「ああ、正一だ」
「正一は、これから猫を捜すの?」
「呼び捨てかよ。まあ、いいけど……。そうだな。今日はこの辺りを捜そうかな」
「明日も遊んでくれる?」
「ああ、いいよ。でも、猫が見つかるまでかな。たぶん、俺が捜している猫と育ちゃんが見た猫は同じ猫だと思うし」
「うん、わかった。じゃあね」
「懐かれたのかな……」
 元気よく手を振る育の姿を見ながら、正一はぽつりを呟いた。

 育は公園から家に帰る途中で、見覚えのある生き物を発見した。
「あ~~、猫だ」
育の視線の先には全身灰色で尻尾だけふさふさの白色の猫がいた。それは間違いなく正一の捜していた猫であった。
 育は少し興奮気味で近づくと、今度も猫は逃げていかなかった。しかし、前回引っかかれたこともあるため、警戒しながら猫に向かってその手を伸ばした。正一の言っていたように、今度は正面からではなく猫の横に並んで後ろから手を伸ばした。そして、額の辺りを軽く撫でた。
 猫は小さく鳴き声をあげると、育に擦り寄っていった。そして、前に傷をつけた指をなめた。その様子に育は感動しながら、また猫を撫でた。
「正一を呼んでこないと」
 育は猫に触りながらそう呟いていたが、内心ではこう思っていた。
(もしも、正一に猫を見つけたことを教えたら、もう遊んでもらえないのかな……)
 途端に、今発言したことを否定するように、頭を横に振った。
「嫌、そんなの嫌……」
 育はそう呟くと、こちらを見上げている猫に視線を向けた。
(家で飼えないかな……。そしたら、お兄ちゃんだって私と遊んでくれるし……。飼うのだってそんなに長い間じゃないはずだし……)
そう思い立った途端に、育は猫を抱きあげた。
そして、公園には向かわず、家へと帰って行った。
 一方、その頃の正一はといえば、そんなことも知らずに日が暮れるまで公園近辺を捜していた。そして、途方に暮れていた。
「見つからないなぁ…」

「その猫どうしたの?」
 育が家に入るなり、母親は驚いた表情で訊ねた。
 無理もない。いきなり、子供が猫を抱えて家に入ってきたら誰しも驚くことだろう。
「拾ってきたの」
「どこの猫なの?」
「知らない」
 育はそう言うと、抱きかかえていた猫を床におろした。
「変わった猫ね」
 猫を家に入れたことを特に咎めることもなく、母親は腰を下ろして猫に手を差し伸べた。
「あ、危ない」
「え?」
 育は母親が猫に引っかかれないかを心配し、反射的に声を掛けた。
育の言葉に思わず母親は猫に伸ばした手を止めた。しかし、育の心配をよそに、猫は母親の手にじゃれるように擦り寄っていった。
「え~、どうして~~」
 育は猫の態度に驚いたと同時に、裏切られたと感じずに入られなかった。
「どうかしたの?」
「ううん、知らない」
 育は不機嫌そうな表情を見せると、小さく「裏切り者」と一言呟いた。
 猫はそ知らぬ顔で母親に顎を撫でられており、機嫌がよさそうであった。
母親もすっかりこの猫を気に入っているようであった。
「お母さん、この猫飼っていい?」
 ここぞとばかりに、育は母親にお願いをした。
「うーん、どうしようかな。お父さんに相談してみようかな」
 そう言って猫を抱きかかえながら、母親は提案した。
 
その夜、父親の許可も下りて、新たな家族ができることになった。
「そういえば、まだ名前を決めていないわね」
「そうだな。何か決めてないのか?」
母親の言葉に、父親は育に訊ねた。
名前をどう付けようかと思案した育の脳裏に、一人の少年の姿が目に浮かんだ。
「ショウ……」
「しょう? それが……猫の名前なのか?」
 名前を反復し、父親は訊ねた。
「……うん、しょういちだから、ショウ」
その言葉に、両親は何かを察知して、互いに顔を見合わせた。
「誰かしら……」
「誰だろうね……」
そして、育に視線を向ける。両親は、育が親しい誰かの名前を付けたのだろうと思った。
「友だち」
二人の疑問に答えるように、育はその単語を口にした。
その言葉に、父親は嬉しそうな顔で育の頭を撫でた。
「もう友だちができたのか?」
「うん」
 父親の質問に、育は笑顔で答えた。


第三章


「公園にくるまでの間、正一は何をしているの?」
 育と正一が出会ってから五日目。育は正一が公園に現れるなり、質問を投げかけた。
「どうして?」
「いつも同じ時間に公園に来るから」
 確かに育の言うとおりで、正一はいつも決まった時間に公園に現れる。育はそのことをわかっていて公園へとやってくるが、さすがに不思議に感じたのだ。
「そうか……」
 育の質問に、正一はどう答えようかと思案しながら視線を上に向けた。育も同じように正一の見ている何もない空間をつられて視線を向けた。
「そうだな、朝はいつも病院に通っているんだ」
「正一は、どこか悪いの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどな」
 正一の少し声のトーンを落として答えた。表情が少しかげっていた。
「じゃあ、どうして病院に行くの?」
「……妹が入院しているだよ」
 正一はそう答えると、育が次の質問をしないうちにブランコに向かって走っていった。育はその様子に慌てて後を追った。

 公園にある遊具でいつものように一通り遊んだあと、正一は猫の捜索を始めることにした。
「そんなに大切な猫なの……?」
 育の質問に正一は首を立てに振った。
「ああ、なんとしても見つけないといけないんだ」
 その答えに、育の心のどこかが嫌な感じになった。そのため、思わず胸を押さえた。
「あ、猫で思い出した。そういえば、前に猫に引っかかれた傷ってもう治ったのか?」
 正一は前に絆創膏を張った育の指をまじまじと見ていた。
 出血はとうに止まっており、傷口は薄くなっていた。しかし、その傷口は少しばかり広がっているかのように見えた。
「痕が残っちゃってるね……」
「うん。でも、痛くないよ」
 正一の気遣いに、育は平気であることを告げた。
「今日は別のところを探しに行くから、ついでに家に送っていくよ」
「ほんと!?」
 正一の提案に、育は喜んだ。
 しかし、育の喜びとは裏腹に、正一はそろそろこの場所から離れるべきだと思っていた。育が猫を見かけたという話もないし、目的の猫がこの周辺にいないとなれば、ここにとどまる理由がないからだ。
 もちろん、育と別れるのは正直つらい。育が正一に懐いていることはわかっていたし、自分がいなくなったら、きっと悲しむこともわかっていた。しかし、それでも目的のためには、そろそろここを離れなくてはならなかった。
「そろそろ潮時だな……」
 育には聞こえない声で、正一はぽつりと呟いた。

「今日はありがとう」
「いや、いいよ。たまには送らないとな。運がよければ、あの猫がいるかもしれないし」
正一は育を家の前まで送ると、すぐに来た道を戻ろうとした。
「正一!」
 育の呼びかけに、驚いた表情で正一は振り向いた。
「お母さんが正一に会ってみたいって言っていたよ」
 正一としては嬉しい申し出であったが、了解するわけにはいかなかった。
「うーん……今日は遠慮しておくよ。でもまた今度な」
「うん、わかった。きっとだよ」
育は悲しい表情を見せたが、次に家に遊びに来る約束をしたら、途端に明るい表情へと変わった。その表情に思わず正一の決心は鈍りそうになった。

 その日の夜、育の家に嬉しい出来事が舞い込んだ。
「本当?」
「ああ、来週から学校に行くことができるぞ」
「やったー」
父親の言葉に、育は声を上げて喜んだ。その様子に両親は思わず微笑んだ。
ここに引っ越ししてから育の表情は明るくなった。
来た当初は、誰とも接することができずにいたため、毎日寂しそうな表情をしていたが、今の育は明らかに変わっていた。それは両親から見ても明らかで、育自身もそれを自覚していた。
おそらくそれは、新しくできた家族と友達のおかげであることに違いなかった。
猫を飼うことになってから、親子共通の話題ができたため、何かと会話が増えるようになったのだ。また、毎日のように正一と遊んでいたため寂しさを感じることがなかった。そして、来週から学校の生活が始まる。
 育にとっては、今が一番幸せであった。
 しかし、それでも一つの心残りがあった。
 ちらりと育は視線を横に向ける。そこには、その心残りの原因となっている対象がいた。
「あなた少し太り過ぎじゃない?」
 友達の名前の一部を取って、ショウと名づけた猫に、育は言葉をかけた。
この猫は普段家にいることから、あまり運動をしない。というより、外に出ないように首輪をしているため、動こうにも活動が限られているのだ。そのせいか、この家に来て一週間も経っていないにもかかわらず、少し体が大きくなっていた。
『幸せ太り』という単語が世の中にはある。もしかしたら、この猫はその幸せ太りになっているのかもしれない。だとしたら、猫にとっても今の生活は幸せだということだろう。
「ショウ、あなた幸せ?」
 その呼びかけに、猫は気づいたかのようにこちらに視線を向けた。そして、間の抜けたような声で返事をした。その様子に笑いながら育は眺めた。
「やっぱり、本当のことを言わないと……」
 育は明日、正一に本当のことを告げる決心をした。正直に話せば、きっと正一だってわかってくれる、そう思ったからだ。

 翌日、いつもの時間に現れた正一に、育は意を決して本当のことを告げた。
「今の話は本当なのか?」
「うん、ごめんね。本当はもっと早く教えるつもりだったんだけど……」
 口ごもる育に対して、正一は何かを考え込むような仕草をした。
 そして、「そうか……もう捜す必要はないのか……」
「ごめんね。本当に……」
「いや、いいよ」
「明日、ちゃんと連れて来るから、だから――」
「もういいよ」
「え?」
「俺はもう帰る。じゃあな」
 そう言って、正一は育に背を向けるようにして公園から出て行った。
 育は声を掛けることもできず、その場に立ち尽くしていた。
 ふと視線を落とすと自分の指先の傷口が亀裂のような痕になっていた。それはまるで今の育と正一の関係を示しているかのようであった。
 
「ただいま」
 気を落とし帰ってきた育に対して、母親が慌てた様子で近づいてきた。
「育ちゃん、大変よ!」
 ただならぬ母親の様子に、育は次の言葉を待った。
「猫ちゃんがいなくなっちゃったのよ!」
「どうして……?」
「変なのよ。部屋にはしっかりと鍵を掛けていたし、ちゃんと首輪もしていたのに。いつの間にか部屋の鍵が開いていたの。それと――」
 そう言って、母親は首輪の付いた紐を育に見せた。
「どうやって外したのかわからないけど、首輪が外されていたの」
 その日、育は、以前読んだ本に出てきた『罰』という単語を思い出していた。やってはいけないことに対するお仕置き。当時は難しくて意味を理解することができなかったが、今はそれが実感できた。
 決してそれは育の行動によるものではないが、育にはそれが自らが起こした出来事のように思えたのだ。
「これは、正一に嘘をついた私への罰だ……正一になんて言おう……」
 育は泣きながら呟いた。

しかし、その翌日、正一はいつもの時間になっても公園に現れなかった。


第四章


 育は公園のブランコの上で、正一が姿を現すのをひたすら待ち続けた。きっと、姿を現してくれる。そう信じていたからだ。
 しかし、どんなに待っても正一は姿を現さなかった。
 自然と、育の目から涙が流れていた。
 早く正一に本当のことを話せばよかった。どうして、あの時すぐに教えることができなかったんだろう。育は今までのことを後悔し、泣きながら家へと帰っていた。
「ただいま」
 昨日よりもさらに低いトーンで声を出した。反応がないことに育は首をかしげた。いつもであれば、母親が「おかえり」と返事を返してくれるが、今日はその返事がなかった。たぶん、それはそれほどまでに育の声が小さいからなのかもしれない。
 ちなみに、今日は日曜日である。そのため、普段、専業主婦である母親の他に、父親も今日は家にいるはずである。それにも関わらず、父親からの返事もなかった。
「おかえり」
 どこからか聞こえた声に、育は急いでキッチンへと急いだ。
そして、そこには信じられないことに正一の姿があった。
「正一……」
 育の言葉に、正一は育の方に視線を向けた。
「育ちゃん、おかえり。お邪魔しているよ」
 そう言って正一はリビングにあるイスに座った。
 育は突然の正一の登場に呆然としていた。相手が誰であろうと、いきなり自分の家に家族以外の人がいれば、警戒するはずである。もしくは、育のように呆然としてしまうかである。
「……ど、どうして…」
 かろうじて平静を保とうと、いつもどおりに正一に話すように声を掛けようとしたが、思うように声が出なかった。無意識にも体のどこかで正一を警戒していた。
「どうして? それはこちらの質問さ。どうして、俺がここにいると思う?」
 ニコリともせずに、正一は訊ねた。
「正一、私の……私のお母さんとお父さんは……?」
 正一の質問には答えず育は正一に訊ねた。実際のところ、育の思考は正確な判断ができないほどに混濁していた。そのため、正一の言葉をまともに考えることもできず、ましてやその意味を汲み取ることなど今の育にとっては到底できないことであった。
「お母さんとお父さん?」
正一は育の言葉を反芻すると、眉を顰めて、口元をやや吊り上げた。
「……それはあれのことか?」
 そう言って正一はある方向を指差した。
 育はその指の方向に視線を向けた。
 すると、そこには父親と母親が折り重なるようにうつ伏せで倒れていた。
「お母さん! お父さん!」
 倒れている両親を発見した育は、すぐさま駆け寄っていった。
「お母さん、お父さん……」
 育の呼びかけに、二人とも返事はなかった。
「正一が……正一がやったの?」
「そうだ」
「え……?」
 正一の答えに育は振り返った。
「どうして……どうして、こんな酷いことするの?」
 育は信じられないという様子で正一に訊ねた。
「理由なんて特にないさ。邪魔だから静かにしてもらっただけだ」
 正一の言葉に、育は立ち尽くしていた。
「どうして…どうして…」
言葉を繰り返すたびに、育の表情は今にも泣き出しそうな顔になっていった。そして、目から熱いものが流れ出すと、不意に視界がぼやけた。
「泣いているのか?」
 正一が訊ねるが、育は首を横に振って否定した。しかし、その拍子に頬を伝っていった涙が大粒となって床へと落ちた。
「正一は…正一は…友達だと思っていたのに……」
 堪りきれず、育は手で顔を押さえながら、育は訴えた。
「俺は、お前となんか友達じゃない」
 涙ながらに訴える育であったが、正一の答えはあまりにも残酷なものであった。
パリン―。
 そのとき、育の中で何かが割れるような音が響いた。
 途端に、育はがくりと膝をつくと、崩れるように床に倒れた。
「…あ……あ…」
 育は放心したように、目を見開き、口が半開きの状態になっていた。全身の筋肉が弛緩してしまったのか、口からはだらりと涎が垂れていた。
 その様子に、正一は思わず眉をひそめた。
「……どう…して……こんな酷いことを…する…の? ……正一…」
搾り出すようにして育は声を出した。しかし、正一は育の方を見てはいるが、何も答えてくれなかった。
「うっ、…うっ……」
やがて育は声をひそめて泣き出した。暫くの間、育のすすり泣きが部屋中に響いた。
 そのときであった。
 ガシャンッ!
 ガラスの割れた音が当たりに響くと、黒い影が部屋に飛び込んできた。そして、それは正一と育の間に割ってきた。
 突然飛び込んできた物体に、正一は思わず一歩後ろに下がって身構えた。
「お前は……」
 途端に正一の表情が険しくなる。
「…ショウ……」
 育は目の前に現れた物体の名前を呼んだ。それは逃げたはずの猫であった。
 育は力なく手だけを猫に近づけた。すると猫は、育の方へと近づき、育の手に体を軽く触れさせると、首元にやってきた。
 そして――
 ガリリッ。
 驚いたことに、猫は育の首元に噛み付いた。
 しかし、育は痛みを訴えることもせず、悲鳴も上げなかった。それは皮肉なことに今の育には痛みがほとんど感じとれていないからであった。なぜなら、それほどまでに心が壊れてしまっていたのだ。感覚があるとすれば、首元に触れる硬い感触と、首元から滴る温い液体の感触だけであった。
「……危ないところだった」
 ふと、育の耳元で誰かの声がした。それは聞いたこともない声であった。
 声の相手を確かめたかったが、今の育にはそれができなかった。
「……危うくこの子をお前に殺されるところだったよ……」
声の主はゆっくりと育の視界に現れた。
(あれ……?)
 しかし、視界に入ってきたのは先ほど育の首元に噛み付いた猫であった。姿は今までと変わらなかった。もし違いがあるとすれば、頭に生えた大きな角くらいであった。
(…どういうことなの……?)
育は少しずつ取り戻してきた意識の中、必死に状況を把握しようとしていた。
 しかし、今の状況から何一つ育にわかることはなかった。
「ショウ……」
 育は猫の名前を呼んだ。しかし、猫は何も反応はせずにこちらに顔を向けてはくれなかった。
「本当に危なかった……」
 育を気遣うようにその猫はしゃべった。
「ショウ……」
 もう一度、育が猫の名前を呼ぶと、今度はこちらに振り返ってくれた。
 途端に、育は絶句する。
こちらに向いた猫は、残忍なほどに歪んだ表情でこちらに微笑みかけていた。
「――俺の獲物……」
 その微笑みは、悪魔の表情そのものであった。
 育はその姿に驚愕した。そして、恐怖した。
 この生き物に見られては息ができなくなるほど、戦慄していたからだ。
 そんな禍々しい空間に、覇気のある声が通る。
「その子から離れろ」
 睨みをきかせ、正一はそう呟いた。


第五章


 対峙する両者を見ながら、育は身動きが取れずにいた。
 ほんの少し前まで、育にとってこの両者は友達であり、かけがえのない存在であった。しかし、今、その両者は育の存在を何とも思っていない。そのため、育にはもうこの二人が自分にとってどのような存在なのかがわからなくなっていた。
「小僧、俺に命令するとはいい度胸だ。何を思ってこんな行動を起こしたかは知らんが、俺の獲物を横取りするつもりなら、受けて立つぞ」
 既に猫という枠から外れたその生き物は、人間のように言葉を話していた。そして、姿かたちは見る見るうちに変貌を遂げ、大きくなった。姿は、黒い獅子のような出で立ちをしているが、角や蝙蝠のような翼、それに蛇のような尻尾が二本付いている。もう猫の面影はとうになくなり、顔は醜く変貌していた。それは、まさに化け物そのものであった。
「醜いな……」
 正一は目の前の敵に対して、そう短く吐き捨てた。
「そんな口を聞いていられるのも今のうちだ。真っ先に貴様を喰ってやる」
 獣のような低い鳴き声を上げると、その化け物は体勢を低く構えた。今にも正一に向かって飛びついていきそうな状態であった。
 正一は先ほど座っていたイスを持ち上げると、化け物に向かって投げつけた。
しかし、それはいとも簡単に化け物の尻尾に弾かれてしまった。その拍子に、木製だったイスは無残にも砕け散った。
「笑わせるな。そんなもので俺が倒せると思っているのか?」
不機嫌そうにそうしゃべると、先ほどと同じように化け物は低い呻り声を上げて、構えた。
その隙に、正一は普段持ち歩いている鞄に手を入れると、中から小瓶を取り出した。
そして、化け物が襲いかかろうとした瞬間に、それを投げつけた。
「遅い!」
化け物はそう言って、反射的に尻尾でその小瓶を払い除けた。結果は先ほどと同じように小瓶は砕け散った。しかし、その結果までは同じではなかった。
「何だ、これは!」
 先ほど小瓶を払いのけた尻尾の辺りが、まるで硫酸をかけたときのように異臭を放って溶けていた。
「お前には刺激の強い、聖水だよ」
「聖水だと!? 貴様どうしてそんなものを持っている?」
「頭の悪い奴だ。まんまと誘き出されたことにも気づいていないようだな」
 そう言って、少年はもう一度鞄の中に手を忍ばせた。一見、余裕のあるような口ぶりでいるが、表情は先ほどと同じように険しかった。
「なんだと…。だが、その程度で図に乗るなよ。私の力を見くびってもらっては困るな」
 化け物はそう言うと、体中に力を入れた。
 何やらまた変貌を遂げようとしていた。
 しかし――。
 驚いたことに、その姿は見る見るうちに縮まっていき、元の猫の姿に戻ってしまった。
違いがあるとすれば、小さな角がちょこんと生えているだけであった。
「なんだと!? どういうことだ……」
 化け物は何が起こったのかがわからず、混乱していた。
「言っただろう、お前は誘き出されたって。お前はさっきの変貌でほとんどの力を使い果たしたんだ」
「力がなくなっている……まさか……」
 そう言って、化け物は後ろを振り返り、育の方を見つめた。
「貴様、俺の正体を知っていたのか……くそっ!」
化け物は逃げるようにリビングの窓に向かって跳躍した。しかし、その足にワイヤーのようなものが巻きついて、それを許さなかった。
「逃がすか」
 正一の腕にはワイヤーが繋がれており、化け物をしっかりと捕捉していた。
「終わりだ」
左手でそのワイヤーを引っ張ると、こちらに引っ張られてくる化け物に向かって隠し持っていた銀のナイフをその胸元に突き刺した。
「ガァアアアーー」
化け物は断末魔の悲鳴を上げると、煙となりその姿を消していった。
 その姿を正一は無言で眺めていた。
(終わった――)
 正一は心の中でそう呟いた。

「大丈夫か?」
 正一はそう言って育を抱きかかえていた。
 育は無言で頷いた。まだ少し警戒しているようであったが、抱きかかえられていることに対して特に嫌がるような素振りはみせなかった。
「助けてくれたの……?」
 涙を滲ませながら、育は正一に訊ねた。
 その質問に、思わず正一は目を閉じた。
 そして、ゆっくりと頭を振った。
「違う。俺は育を利用しただけだ……」
 悲しそうな顔をして、正一はそう一言呟いた。
「お母さんとお父さんは……?」
「大丈夫だ。少しの間、眠っていてもらっただけだから何の怪我もないよ」
 育はその言葉にうつ伏せに倒れている両親に視線を向けた。
「ごめん。本当にごめん。こんな酷いことをして……」
 正一はそう言うと強く育を抱きしめた。そして、涙ながらに謝った。
育はその様子を無言のまま見つめていた。
そして、ゆっくりとその頭を撫でた。
「私は大丈夫だよ……だから泣かないで……」
 育のやさしい言葉に、正一の頬から余計に多くの涙が流れた。そして、ひとしきり泣き終わると、正一はそっと育から離れた。
「正一……?」
 育は心配そうな面持ちで、正一の名前を呼んだ。
そして、何かを察して思わず正一の服を掴んだ。
「行っちゃ、やだ!」
 その言葉に、正一は顔を横に振ると「ダメだ」と一言呟いた。
「やだ……行っちゃやだよ……」
 今度は弱々しい声で育は正一を引き止めた。
 しかし、それでも正一は繰り返し顔を横に振った。
「お別れだ」
「今度遊びに来てくれるって、約束したじゃない!」
 正一の言葉を掻き消すような大きな声で、育はそう訴えた。
「やっと友達になれたのに……こんなお別れなんてやだよ……」
 その言葉に正一は思わず育から顔をそらした。
まっすぐにこちらを見る純粋な目を見ることができなかったのだ。そして、まだ友達だと言ってくれる育に向き合うことができなかったのだ。
「約束して。次はきっと遊びに来てくれるって」
 育はそう言って小指を差し出した。
 正一は育のその行動に、はじめは目をそらしていたが、やがて、観念したのか、自分の小指を差し出した。
「約束して、また一緒に遊んでくれるって」
「わかった」
「約束して、ずっと友達だって」
「ああ、ずっと友達だ」
「約束だよ」
「ああ、約束だ」
 そう言って、育と正一は指切りを交わした。
ひんやりと冷たい小さな小指は、微かにだが震えていた。
きっとそれが何を意味するのかを理解していたのかもしれない。
「じゃあ、またな」
正一はそう言うと、その場から立ち去って行った。
「……さようなら……」
 部屋に残った育は、もう会うことのない友達に、そう言葉をかけた。


第六章


 夕日が沈み、もう少しで夜になろうとしている時間に、誰もいないはずの礼拝堂に、一人の少年が聖壇の前で祈りを奉げていた。何かを懇願するように、両膝を地面につけた状態で、祈り手を作り、頭を軽く下げていた。
「どうした少年?」
 ふと少年に向かって一人の女が声を掛けてきた。
 姿からして、その女は修道女のようであった。建物は暗くてその人物の表情を見ることはできなかったが、十代後半から二十代前半くらいの若い女であった。
「……妹を助けて下さい」
 少年は涙ながらに訴えた。
「その妹はどこか悪いのか?」
「悪魔に…悪魔に襲われた……」
 女の質問に少年はそう答えた。
「悪魔だと」
 その途端、女の声が少し興奮したように上ずった。意外にもその反応は少年を小馬鹿にしているようではなかった。それは、まるで本当に『悪魔』という存在がこの世にいることがわかっているかのような反応であった。
「詳しく話せ」
 ニヤリと口元を吊り上げると、その女は無機質な声で少年に命令した。
そのとき、少年は少し目線を上げることで女の顔を見ることができた。長い黒髪に綺麗な顔立ちをしている。しかし、その表情はあまり好意を抱けるようなものではなく、吊り上げられた口元はどことなく不気味さを感じるほどであった。
 少年はその女の言葉通りにすべてを話した。
 ある日、妹が捨て猫を拾ってきたこと。その猫を飼い始めてから数日過ぎたときに、突然、妹が急に倒れたこと。そのときに傍にいた猫が姿を別の生き物に変身して走り去ったこと。
 当時、少年が覚えていることを隠さず、女に話した。
女は少年の話を聞きながら、途中で猫の特徴や妹の容態、飼っていた日数について細かく訊ねた。そして、その話の中から一つの結論を導き出した。
「おそらく、そいつは『ウィーク・デビル(week devil;一週間の悪魔)』だな。主に、小さな子どもを襲う悪魔だ。一日目に子どもの生き血を吸う。そして、一週間中その子どもに幸せを与え続け、幸福に満たされた心を一週間後に食らう。正確には、その子どもの血肉を食らう。と言っても君の妹のように少し噛み付かれる程度だがな。そのときに噛み付いた悪魔は、その子どもが幸福であればあるほど、より強大な力を手にする。まあ、私に言わせれば、悪魔と言うのは名ばかりで小物だがな」
 女は淡々と説明すると、優越した表情で笑った。
「どうしたら、倒せるの?」
 少年の質問に、笑っていた女はぴたりと笑うのを止めた。
「知りたいか?」
 その言葉に少年は首を立てに振った。
「だが、知ったところで普通の人間には奴を倒すことはできないぞ。私であれば簡単に倒せるが、相手が小物すぎるからな。おそらく私が近づいたところで、あっという間に逃げていってしまうだろう。まあ、私が協力すれば君にでも倒すことができるだろうけどな」
 そう言って女は少年に視線を向ける。
「……わかった。だったら、僕が…僕があいつを倒すよ……」
 少年は勇気を搾り出すようにそう答えた。
「いい心掛けだ。こんなところで神に祈りを奉げても、助けなど来るはずはないからな」
女はニヤリと笑った。
「だが、その場合はそれなりの対価を払ってもらわないとな。その覚悟がお前にはあるのか?」
 その言葉に少年は首を立てに振り、頷いた。
「そうか。だったら――」
 そう言って女は透き通るほど白い自分の腕を口元に持ってくると、血が出るほどに噛みつけた。そして、口の周りに血のついた状態で少年に顔近づけると、口付けを交わした。
 とんでもない不意打ちであった。
 少年は突然の女の行動に、思わず女を突き放そうとした。しかし、女の力は強く、まるで動かなかった。その口付けは少年が窒息してしまうのではないかと思うほど、長かった。現に互いの口が離れた後、少年は息切れを起こしていた。
「初めてのキスの味はどうだったかな? 私の血を含んでいたからな。鉄の味がしただろう」
 悪戯っぽく笑う女に思わず少年は頬を赤く染めた。そして、まだ微かに唇の感触が残る自分の唇を無意識に手で触れていた。
「一体、何を……?」
「対価さ」
 そう言って女はまた笑った。
「話の続きだが、さっき説明したことを応用すれば、倒し方なんて簡単だ。奴は心を食らう子どもの心が幸福であれば、幸福であるほど力をつける。ということは、その逆も然りということだ。子どもの心が不幸であれば、奴はその心を食らった瞬間にあっという間に力を失う。それで、『弱い悪魔 (weak devil)』の出来上がりってわけだ」
 自分で説明しながら、女は傑作だとばかりに笑っていた。
「奴は目印をつけた子どもがいれば、一週間は別の相手を襲うことはない。つまり、一週間はその場にとどまっている。その子どもさえ見つければ、楽に倒すことができる」
「だったら、僕が――」
「それはムリだ」
 少年の言葉を女は遮るようにして言った。
「君がその囮になったところで、簡単に見抜かれる。奴はより綺麗で美しく、純粋な心を狙って寄ってくる。だから、私が君に今の話をした時点で、そいつは君の持つ悪魔への猜疑心に気づいて、決して近づいてこない。その前に、君はどうやって君自身不幸にするつもりだ?」
「そしたら、どうすれば……」
 少年は気を落としたように俯き、小さな声で呟いた。
「簡単なことだ」
 その言葉に少年は顔を上げた。女の顔は先ほどと同じようにニヤリと笑ってみせた。
「別の囮を使えばいい」
「え?」
「驚くことは無いだろう? 当然の話だ。適当な相手に目星をつけて、襲われるのを待っていればいい。そして、一週間経ったら、そいつを不幸のどん底に突き落としてやればいいのさ」
 女はさも愉快そうに説明した。
 しかし、それは少年にとってはとても容認できないものであった。
 少年は否定するように首を横に振った。
「他人を哀れむのは止めろ。妹を救いたいんだろう? 誰かを救いたいのであれば、誰かをおとしめればいいのさ。相手は純粋な心を持った子どもだ。簡単に心なんて破壊できるさ」
「嫌だ!」
「子どもの心を破壊したときは、鏡の割れるような綺麗な音がするらしいぞ。是非ともこの耳で聞いてみたいものだがな」
 叫んで拒否する少年を無視するように、女は心が壊れたときの子どもの話を聞かせた。
「あなたは…おかしいよ……」
「何だ? どうした? さっきまでの勢いは? もしかして、君は失敗を恐れているのか?」
「違う!」
「失敗しても、代わりの子どもなんてごまんといるさ」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
「そんな考えでは君は自分の大切な人を誰も救えない」
 その言葉に少年は黙って女を見据えていた。しかし、女は少年がしゃべるのを待っているのか何も語らなかった。やがて少年は女との視線を振り切るようにして、背を向けた。そして、歩き出すとそのまま礼拝堂の出口に向かって歩き出した。
「まあそれがいやなら好きにすればいいさ。だが、奴を野放しにしていたら、君の妹は永遠にあのままだ。そして、君の妹と同じような子どもは今度も増え続ける。君はそれでもいいのかい? 君が行動を起こさなければ、状況は何も変わらないんだよ」
 女の言葉に、妹の苦しんでいる姿が少年の脳裏に浮かんだ。
 すると、ぴたりと少年の足取りは止まった。
 そして、覚悟を決めた眼でこちらを見据えた。
「いい眼つきだ。君ならきっと奴を倒せる」
 少年の表情に、女は微笑み、そう呟いた。
「だけど、何も持たずに戦うのは危険だな」
 そう言って女はどこから出したのか、液体の入った小瓶と、銀の短剣を取り出した。
「きっとこれらが役に立つはずだ」
 女はそう言って、それらを手渡した。
「……ありがとう」
 少年はそれらを受け取ると、素直にお礼を言った。
「一つ言い忘れていたが、奴を倒したところで妹の症状の悪化は食い止めることはできるが、元の状態に戻るわけでは無いからな」
「え……?」
 何気ない女の言葉であったが、少年が驚くには十分であった。
「ウィーク・デビルに襲われた子どもは、元凶である悪魔を倒しても、元の状態には戻れない。なぜなら、それは本人にしか心の傷は直せないからだ。一度、壊された心は本人が強い意思を持って克服しない限り治ることは無い」
「どうして、今そんな大事なことを言うんだよ」
「そんなの、君が私に悪魔の倒し方しか訊ねていないからね」
 抗議する少年にさらりと女は答えた。
「なっ……」
 文句を言おうとした少年であったが、この人はこういう人間なんだと自分自身を納得させることで踏みとどまった。
「つまり、私が何を言いたいのかわかるか?」
「わかりたくも無い」
 さっきのやりとりで少年は嫌気が指したのか、まともに相手をしようとしなかった。
「そう邪険にするなよ。つまり、私が言いたいことは、生きて帰ってこい、ということだ。君が死んでしまっては余計に君の妹を悲しませる結果になるからな」
 女は縁起でもないことをさらりと口にした。
「私もそれを望んでいる。生きて帰ってこい」
「……わかったよ」
 今度は真顔で話す女に、思わず頬を染めながら少年は約束した。
「最後に、もう一つ。例え君が子どもの心を壊したところで、君の妹と同じような状況になるわけじゃない。子どもの心は脆いが、そんなに弱いわけではない。立ち直させることさえできれば、きっと大丈夫だ」
 その言葉に、少年の心に残っていたしこりのような物が少し軽くなったような気がした。
「あと、奴は今、あっちの方向にいる」
 そう言って女は北北東の方角を指差した。
「気配を感じるから、たぶん、まだ近くにいるはずだ」
 少年は再度お礼を言うと、礼拝堂の出口へと向かった。
 そして、出口に差し掛かったところで、女の方に眼を向けると、もう一度お辞儀をした。
「がんばれ」
 女はそう告げると、軽く手を振って少年を見送った。
「あの子に神のご加護があらんことを……」
 そう言って女は聖壇に向かって祈りを奉げた。
「……少なくとも、一ヶ月は持ってくれよ」
 そして、祈り事の最後にそう付け加え、笑みを浮かべた。


エピローグ


 相手はまだ現れなかった。さすがに、時間がかかり過ぎている。
 相手のことが心配になり始めた頃、一人の女の子が目の前に現れた。
「こんにちは」
 背格好からして自分と同じくらいである。
「一人で遊んでいるの?」
 その質問にブランコに座っていた女の子は首を横に振った。
 その様子に、質問をした女の子は辺りを見回し誰もいないことを確認した。
「隣いい?」
 今度はこくりと首を縦に振った。
「私、立花育って言うの」
 隣のブランコに腰を落とした女の子は、そう告げると女の子の顔をまじまじと見た。
「私は……私は河南琴乃
 恥ずかしそうに、琴乃は自分の名前を告げた。
「よろしくね、琴乃ちゃん」
 明るい表情で育は手を差し出した。
 その様子に、琴乃はおどおどした様子でその差し出された手を見ていた。
 どことなく怯えているようにも窺えた。
「どうしたの?」
 その言葉にびくりと体を震わせた。
「……ごめんね。私、私……怖いの……」
 琴乃はそう答えると、ブランコの鎖を強く握った。表情も強張っていた。
 琴乃の行動に、少し驚いた顔を見せた育であったが、ブランコから降りると琴乃の前に移動した。そして、ブランコの鎖を握っている琴乃の手を取ると、強引に握手をした。
「よろしくね、琴乃ちゃん」
 真っ直ぐにこちらを見ている育の瞳に、琴乃は思わずうつむいた。
「誰か待っているの?」
 その質問に琴乃はうつむいたまま頭を小さく縦に振って答えた。
「友達?」
 今度は横に首を振った。そして、「私、最近まで病院にいたからあまり友達いないの……」と申し訳なさそうに呟いた。
「じゃあ、私が友達になってあげる」
 育のその言葉に、琴乃は顔を上げた。
「……よろしく…」
 消え入りそうな声で琴乃は答えた。
「誰を待っているの?」
 育は先ほどと同じ質問をした。
「お兄ちゃん……」
「お名前は?」
「正一って言うの」
「どこへ行ったの?」
「お世話になった修道士の人にお礼を言ってくるって言ってた」
「そうなんだ」
 そう言って育は琴乃の隣に座った。
「私も一緒に待っていてもいい?」
 そう言って育は琴乃に微笑みかけた。
それから暫くの間、まだ現れない兄の姿を二人して待っていた。

礼拝堂の扉を開けると、目的の女性がそこにいた。
「おお、いつぞやの少年」
女は嬉しそうに、柔和な表情で笑いかけてきた。
一ヶ月以上も前のことなのに、まだ覚えてくれていたようだ。
「約束どおり、生きて戻ってきたよ」
大きなことを成し遂げたとばかりに、少し誇らしげに少年は報告をした。
「そうか。それはよかったよ。それで、妹さんの容態は?」
「少しずつ良くなってます。まだ他人を怖がっているようなところはあるけど、少しずつ時間を掛けていけば、きっと大丈夫だと思う」
「そうか。私も君の力になれて嬉しいよ。で、もう一人の方はどうなんだ? 悪魔を倒したということは、私が言ったとおりにしたということなんだろう?」
 今回は特に笑みを浮かべることなく、真摯に訊ねてきた。
「はい。でも、あの子なら俺がいなくても、きっと大丈夫です。あいつは強いから……」
 少年はその子を思い出すかのような表情で、一瞬遠い目になった。
「そうか。君が居なくても、か……。それほどに強いのか、その女の子は?」
「ええ。もう会うことはないかもしれないけど、育ならもう大丈夫です」
 そう答えた少年は、なんとなくではあるが、奇妙な違和感を覚えた。
「そうか、つまり今の君はもう幸せということだな」
「え?」
 少年には、女が何を意図してそのようなことを言ってきたのかわからなかった。
「どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味さ。今、君は私が与えた幸福で満たされているという意味だよ」
 その瞬間、少年の全身の毛が一瞬にして逆立つのを感じた。
 途端に、少年は素早く鞄から銀の短剣を取り出した。
「それは私が君に与えた剣だ」
「だったら、その体に突き刺して返してやる」
「わかっていないわね」
 そう言うと、女はパチンと指を鳴らした。
途端に、銀の短剣はあっけなく砕け散った。
「うわぁっ」
短い悲鳴を上げ、少年は軽く尻餅をついた。少年が倒れこんだ地面には、無残に砕け散った短剣の破片が転がっていた。少年はすぐさま女に視線を向けた。しかし、そこには別の相手が視界を遮っており、女の姿は見えなかった。少年はその相手に愕然する。
「お前は……ウィーク・デビル」
 そこには少年が倒したはずの悪魔、ウィーク・デビルが立っていた。
「ど…どういうことだ……どうして、お前が……?」
 少年は驚きの声を上げた。ワナワナと震える顔には、もう恐怖しかなかった。
 その少年に向かって、女は口を開いた。
「わからないか? 全部私の仕組んだ罠だったんだよ。つまり、全部、ウソ。君はまんまと私に嵌められたわけだ」
「で、でも、こいつは煙になって……」
 混乱と恐怖の最中、少年は震えた声で呟いた。
「だから、さっきも言ったろう? あれは私が君に与えた剣だと。あれは悪魔を一時的に封じるだけの力しかない短剣だ。私の意のままにいつでも破壊できる。それに悪魔がそんなに容易くやられるわけがないだろう?」
 そう言って、女はいつものように口元をニヤリと吊り上げた。
「……嘘だ…嘘だ………」
 少年はガタガタと体を震わせながら、怯えていた。
「こいつ、喰っていい?」
 少年の目の前にいるウィーク・デビルは、以前にも増して残忍な表情で訊ねた。
「ダメよ。こいつは私の獲物」
 最期に少年の眼に映ったのは、酷く醜く歪んだ女の正体であった。

Fin